
猿投山遠望
名古屋市南区 中京病院(地面標高1m)6Fから東南東を望む(望遠レンズ200㎜) 手前は「新幹線」東京行き(名古屋駅から南南東10km地点)少し向うに名古屋鉄道常滑線「豊田本町駅」 右奥のどっしりした山が「猿投山」(標高700m カメラから30km)
猿投山の左手前に「愛知万博(愛・地球博)記念公園の大観覧車」(地面標高100m カメラから20km) 右手前の茶色の大きなビルが「名城大学」(地面標高50m カメラから10km) 大学の延長線上、カメラから15km地点に当工房「新岩崎窯」がある。 猿投山の左方面の山は 昔の尾張国・三河国・伊那国の分岐点「三国山」遥か向うの山は信州伊那地方の山々 猿投山の右方面の山は奥三河の山 (カメラからの距離は全て5km単位の概略表示)
猿投山から西(手前)に20km、南(右側)に20kmの台地(名古屋東部丘陵地帯)が「猿投西南山麓古窯址群(略して猿投古窯)」である。主として名古屋市東部、日進市、長久手町、みよし市、豊明市北部、刈谷し北部、豊田市西部、瀬戸市南部が含まれ、古窯址は1000基を数える。その昔、6世紀から12世紀の700年間 日本全国に「やきもの」を供給したといわれる。その後瀬戸市を始め全国に「日本6古窯」として受け継がれ、猿投古窯は終焉を迎えた。

月下美人 メキシコの熱帯雨林地帯を原産地とするサボテン科クジャクサボテン属(7月8日22時)
世界歴史の中で「陶器(土器を含めて)の始まり」は諸説あり定かではないが「縄文時代である今から12000~15000年前の日本ではないか」といわれている。しかし、今から数百年ぐらい前までの陶器は中国やペルシャなど諸外国が圧倒的な発展をしたようである。
この間、日本でも独自の進歩や中国・朝鮮からの技術・人材の流入による発展はあったが島国や鎖国など地理的・政治的条件などの制約で外国との交流や競争が少なく進歩のスピードは緩かったのであろう。
日本の歴史を見ると縄文時代から各地で縄文・弥生土器、土師器、須恵器などが細々と続けられ、中世まで大規模な生産地として発展し都を中心に全国の貴族・武士・祭礼などに流通したのが「日本3大古窯(6から12世紀)」(古代の窯跡/猿投古窯群・愛知県、陶邑窯・すえむらかま大阪府、渥美窯・愛知県) 「日本6古窯(12~16?世紀)」(中世の窯跡/瀬戸焼(愛知県)・常滑焼(愛知)・信楽焼(滋賀)・備前焼(岡山)、丹波焼(兵庫)、越前焼(福井)である。
市街地の虹(7月11日17時) よくみる(クリック拡大)と主虹の外側にかすかに副虹が見える。副虹は太陽光が水滴の中で2回反射するため色の順番が主虹の逆になる。