松の芽吹き
猿投窯の終焉と並行して「日本6古窯」の一つである「瀬戸古窯」が始まる。日本6古窯とは、中世・平安時代後期から繁栄し、現代も続いている主要な6つの窯場を云い、瀬戸の他、常滑・信楽・備前・丹波・越前がある。
瀬戸古窯は猿投窯の最北に位置し、猿投窯の技術を受け継ぎ、更に良質で豊富な粘土と燃料(松、なら等)を駆使して発展してゆく。・・・・(取材中)
2009年6月28日日曜日
103.タジン鍋 ロマン再び ー 8 / 瀬戸古窯
102.タジン鍋 ロマン再び ー 7/ 猿投窯の終焉
5~14世紀、日本最大の陶器(須恵器・灰釉陶器)生産地に発展した「猿投窯」もついに終焉を迎える。どうして終わったかは諸説あるが推測を含めて纏めると次の様である。
1. 他地域が発展し相対的に衰退。猿投窯の技術は全国に広がり、また、大陸からの技術導入もあって他地域が大きく発展。猿投窯はもともと保守的で、末期の13~14世紀ごろは一般庶民向けの安茶碗に集中して生産していたの発展が遅れたともいわれる。
2.猿投窯地域は、材料(粘土、燃料など)、流通に限界があり、例えば、「瀬戸」に比べて粘土層が薄く、亜炭層もあって新時代の大量生産には不向きであった。又、燃料である木材(松、なら)が枯渇したとも言われている。
しかし、猿投窯の技術は次代の瀬戸古窯、常滑古窯を中心に引き継がれて今日まで、日本の・世界の代表的陶磁器生産地として発展して行く。
2009年6月21日日曜日
101.タジン鍋 ロマン再び ー 6 / 猿投古窯跡群-3
香久山古窯/日進市香久山5丁目 /海抜50m 2009.7.19撮影
猿投窯・約1500基は特に奈良・平安時代にはわが国屈指の窯業地でした。灰釉(かいゆう)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)という、当時の日本で最も高級な製品を生産し、中国製品に次ぐ高級品として平城京・平安京の都を中心に全国へ供給されました。 のちに、その窯業技術は、瀬戸・常滑へと受け継がれたと考えられています。
これらの内、保存状態の良い窯の一部が市町村の文化財として手厚く保護・公開されている。香久山古窯もその一つ、また、香久山古窯(岩崎45号窯)は70基を数える猿投窯・岩崎地区の古窯の中のひとつで、昭和57年(1982年)に発掘調査が実施されました。遺構は、平安時代初期(9世紀初期)の典型的な窖窯(あながま)で、長さ7.9m、幅2.0mの窯内に分焔柱(ぶんえんちゅう)を有し、天井部を除いて、ほぼ完全な状態で残存していました。
詳細 クリック拡大
香久山古窯がある「すずかぜ公園」、右は香久山小学校 発掘調査(1982年)の後、古窯を残して周囲は名古屋市の都市計画として宅地開発(1985~1995)された。
香久山古窯がある建物 これ程の丈夫な建物は猿投古窯跡群地域には他に無い。
2009年6月13日土曜日
100、タジン鍋 ロマン再び ー 5 / 猿投古窯跡群-2
日進市岩崎町竹の山(海抜100m)から東北東「猿投山・629m」を望む。 正面の丘陵に「愛知万博」記念公園が見える。左側は瀬戸市、右側は豊田市、手前は長久手町、日進市 クリック拡大
上記写真の撮影位置から西南西「伊勢湾」方向を望む。 正面向う側、及び、右が名古屋市、手前が日進市、左が豊明市。 既報の「東海湖」底の地層写真はこの写真中央の森の右向う、後報の「香久山古窯跡」は左水道搭下の森左側にある。
愛知県日進市を中心に半径約10km以上の広大な名古屋東部丘陵地(海抜30~200m)は数百万年前の「東海湖」の時代に現在の猿投山629m(愛知県瀬戸市と豊田市の境界)、三国山701mm(愛知県と岐阜県の境界)方面から膨大な花崗岩風化物が流入堆積した。古代(5~12世紀)、この地区には延べ約1500基の窯があったとされている。